【重慶の歴史 其の弐】
中国の歴史年表
其の壱では紀元前から南北朝時代までを見てきました。
其の弐では隋から現在までの近代史を紹介していきます。
中国の簡易年表は以下の通り
・夏(紀元前2100年~紀元前1700年)
・商(紀元前1700年~紀元前1100年)
・周(紀元前1100年~紀元前221年):西周・東周・春秋・戦国時代を含む
・秦(紀元前221年~紀元前207年)
・漢(紀元前206年~220年):西漢・東漢を含む
・三国(220年~280年):魏・呉・蜀を含む
・晋(266年~420年):西晋・東晋・五胡十六国を含む
・南北朝(386年~577年):宋・北魏・齐・梁・西魏・東魏・陈・北周・北齐を含む
・隋(581年~619年)
・唐(618年~907年):武周を含む
・宋(960年~1279年):五代十国・北宋・辽・西夏・金・南宋を含む
・元(1271年~1368年)
・明(1368年~1644年)
・清(1636年~1912年)
・中華民国(1912年~1949年)→中華人民共和国(1949年~現在)
隋→唐→宋→元→明
荆州は後に益州、巴州(信州)、楚州と名を変え、隋の時代には渝州と呼ばれるようになりました。
この時代の名残から今日でも重慶の略称として”渝”を使い、車のナンバープレートは渝から始まります。
唐の時代には西洋と東洋を繋ぐシルクロードを通じた交易が盛んとなりました。
シルクロードの東側の起点であった西安(一説には洛陽)とほど近い重慶でも多くの西洋文化が取り入れられました。
例えばインドから唐に石窟技術が伝来し、現在はユネスコ世界自然遺産に認定されている大足石刻が重慶で彫り始められました。
1189年には南宋の光宗によって、”良いことが重なって起こるように”と”双重喜庆”と名付けられ、省略して“重庆”と呼ばれるようになりました。
また南宋の後期にはモンゴル帝国が勢力を増し、成都が陥落しました。
危機が迫った重慶ではそれまで木造だった江州城を改築し、石造りの強固な城を作り元の侵攻に対抗しました。
また1371年の明の時代には第四回目の築城が行われ、重慶の中心部を囲う城壁と17の門が作られました。
17の門のうち8つの門は外敵の侵入に備え常時閉じたままだったと云われています。
元・明・清の3時代に渡り重庆は四川に属しました。
近代史
1876年の清の時代には重慶に英国の領事館が置かれ、重慶は貿易港の一つに任命されました。
1895年に日清戦争で清が敗れると、重慶は中国で初の内陸の貿易港として栄えました。
また英国に加え、仏・独・露が重慶に兵舎や領事館・大使館を設立しました。
1929年には正式に重慶市が誕生しました。
1937年に日中戦争が勃発すると、中国の時の政府は首都を南京→漢口→重慶へと移しました。
内陸部の重慶には軍事工場が増加し、軍需産業が発達しました。
1939年~1941年には日本軍による空爆を経験し、多くの建造物が焼失しました。
1949年には人民解放軍が駐屯するなど、重慶は抗日運動の西南地域の中心地となりました。
また1950年代後半から中ソ対立が表面化すると、中国の北部から重慶に多くの工場が移転されました。
特に機械工業・総合化学・食品加工・建築資材・医療品・電子機器・電力設備・ガラス工業・冶金などの工場が重慶に集まり、一時中国の工業をリードしました。
一連の紛争が収束すると、次第に中国の沿岸部が発展を遂げていきます。
1980年代には重慶は軍需産業や工業の中心地としての重要性を失い衰退していきます。
しかし1990年代には中華人民共和国の内陸部発展のかなめとして、重慶は直轄市に指定され、自動車産業を中心に近年再発展を遂げています。
また外資を積極的に誘致し金融センターとしても発展中です。
一例としてシンガポールのマリーナベイサンズを建設したCapital Landを誘致し、渝中区の中心地に類似のビルを建設しました。
重慶は市内総生産で中国トップ5に入るなど、近年発展目覚ましい姿を見せています。
また2019年には中国国内で最も中国人観光客が訪れた都市になるなど、重慶は豊かな歴史や独特の料理を背景に観光地としても成長を遂げています。
今後も多くの方面で進化が期待される重慶から目が離せません。
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