【重慶の歴史 其の壱】
旧石器時代から古代
重慶の歴史は約4千年~5千年前に遡ると云われています。
重慶の歴史‐其の壱では紀元前から南北朝時代までの歴史を見ていきます。
隋以降の歴史は其の弐をご覧ください。
四川では紀元前200万年前から人類の生活の跡が見られ、旧石器時代の始まりとされています。
紀元前7千~8千年前に新石器時代が始まり、現在200以上の遺跡が発見されています。
その後紀元前4千~5千年前に四川は古代に突入します。
このころ中国の中央平原では国家が建設され、時代は夏・商・周の時代に入っていきます。
中国の歴史年表
・夏(紀元前2100年~紀元前1700年)
・商(紀元前1700年~紀元前1100年)
・周(紀元前1100年~紀元前221年):西周・東周・春秋・戦国時代を含む
・秦(紀元前221年~紀元前207年)
・漢(紀元前206年~220年):西漢・東漢を含む
・三国(220年~280年):魏・呉・蜀を含む
・晋(266年~420年):西晋・東晋・五胡十六国を含む
・南北朝(386年~577年):宋・北魏・齐・梁・西魏・東魏・陈・北周・北齐を含む
・隋(581年~619年)
・唐(618年~907年):武周を含む
・宋(960年~1279年):五代十国・北宋・辽・西夏・金・南宋を含む
・元(1271年~1368年)
・明(1368年~1644年)
・清(1636年~1912年)
・中華民国(1912年~1949年)→中華人民共和国(1949年~現在)
巴国の誕生
商・周の時代には四川で初めての国家である蜀国が興ったと云われています。
現在の重慶にあたる場所で初めての国家である巴(バ)が現れたのは夏の時代でした。
巴はもともと湖北省西部で生活していた一つの部族でした。
後に他の部族と同盟を組むことで四川盆地東部(重慶)・湖南省西部・陝西省南東部まで領土を拡大しました。
巴国の建国の際には以下のような話が伝えられてます。
5つの部族、巴(バ)・樊(ファン)・瞫(シェン)相(シアン)・鄭(ジョン)が同盟し、初代の王と国名を決める際にあるコンテストを行いました。
それは短剣を崖の上に置かれた石に向かって投げ、石の割れ目に短剣を突き刺すというものでした。
各部族の代表者が順に短剣を投げ、唯一成功したのが巴国の代表でした。
しかしほかの部族が結果に異議をとなえ、ほかの協議で再戦が行われました。
今度は代表者は一人ずつボートとオールを与えられ、激流の中で最後まで転覆しなかった者を勝者とするものでした。
そして今回も巴国の代表のみが最後まで残り、晴れて巴が首長となる巴国が建国されたと云われています。
巴国の文化
巴国では占いや儀式が盛んに行われ、生贄文化もあったとされています。
重慶では当時占いや儀式に使われたであろう石器・骨器・陶器が多く出土されています。
また巴では国の象徴として虎が重要な意味を持ち、特に白い虎を神格化しました。
巴の初代国王が亡くなったのちに、白い虎に転生したという伝説も残されています。
巴は武器の生産に長け、隣国の戦争に傭兵として雇われ活躍しました。
戦場では虎の模様の入った武器でお互いを認識したと云います。
また巴では巴渝(バユ)と呼ばれるダンスが発展していて、戦場で使う武器や銅鑼を使用するのが特徴的です。
巴渝は後の王朝に引き継がれ、唐の時代に更に発展を遂げ、現在でも中央アジア地域に巴渝に由来する踊りが見られます。
巴国では独自の象形文字が使われるなど、優れた文化を誇っていた様子が伺えます。
今日の重慶でも巴国の文化は大切に保全されています。
秦の台頭から三国時代へ
巴国は紀元前316年に当時強大だった秦に滅ぼされ、”巴”の地名はそのままに秦に組み込まれます。
秦の張儀(魏の生まれ。秦の宰相として活躍)が江州に兵を置き、朝天门付近に江州城を築きました。
以降江州城を中心として巴は発展していきます。
巴は時代の変遷に伴い名を変え、漢の時代には江州と呼ばれ、三国時代には蜀に属し、荊州と呼ばれました。
重慶には三国時代の蜀の劉備が亡くなった白帝城があります。
白帝城は現在の重慶市奉節県の長江三峡に位置し、後漢に公孫述によって築城されました。
221年に即位し蜀を興した劉備でしたが、同年6月に義兄弟の張飛が部下の裏切りに合って殺害され、部下はその首をもって呉に逃げ延びました。
翌年222年(三国時代)に劉備は軍を挙げ呉の討伐を図ります。
始め呉の孫権は講和を提案したものの、劉備の怒り(張飛の死が原因と考えられる)は収まらず、長江一帯で夷陵の戦いが発生しました。
劉備自ら率いる蜀軍(一説には4万人)は陸軍・水軍を駆使して、陸遜率いる呉軍(一説には5万人)と交戦しました。
実戦経験の少ない陸遜の能力は呉軍では懐疑的に取られ、蜀軍に壊滅寸前にまで追い込まれます。
しかし陸遜の機転により、深夜に水上から火矢を射かけ蜀の陣営を大敗させます。
蜀の前線は後退し、陣を立て直そうとしますが、最終的に劉備は趙雲の助けのもと白帝城に逃げ延びました。
三国志演義の中では、前もって劉備の敗走を見越していた諸葛亮が石兵八陣(巨大な石を削り、空気の流れを調節し、突風が吹きおこるようにした陣)を構え、白帝城に攻め込んできた陸遜を追い返した逸話が綴られています。
その後劉備は白帝城を永安城に改名し、劉禅と諸葛亮に蜀の後を託し、失意の中223年に息を引き取りました。
蜀は263年に魏によって滅亡されました。
その後265年に司馬炎が晋を建国し、280年に呉を滅ぼして中華統一を成し遂げます。
その後の南北朝の動乱の時代に重慶は属州を変えていきます。
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